女子力第二段。今度は少し違う視点から。  『本質の対義語は“現象”だってさ。』というエントリーで、「“女子力”をドイツ人が理解出来るか置いといて」と書いた。間違いなくドイツ人はこの概念を理解出来ないと思ったから(あくまで国民性の一般論として書いています)。  もしかしたら、...

女子力第二段。今度は少し違う視点から。 

『本質の対義語は“現象”だってさ。』というエントリーで、「“女子力”をドイツ人が理解出来るか置いといて」と書いた。間違いなくドイツ人はこの概念を理解出来ないと思ったから(あくまで国民性の一般論として書いています)。
 もしかしたら、イタリアにいるイタリア女性ならこの感覚は理解出来るのかもしれないなと思う。イタリア女性も“The 女!”でいることが好きだから。スペイン人も女性らしいとは思うけれど、おしゃれにかける情熱が欠けると思うから、“女子力”は理解出来ないと推測する。 

女子力のなんたるや、イマイチわかってない私ですが・・・
はっきり言って、この感覚はコンサバティブ(保守的)です。 

自分が女性らしい格好が好きだったり、爪をキレイにしてたり、料理が好きだったりするには別にコンサバティブだとはまったく思わないけれど、社会全体がそれをもてはやす風潮にあることに違和感を覚える。女子力って結局「女子は女子らしく」ということでしょ? それってコンサバティブ以外に何かある?イタリア人なら理解出来るかも・・・って書いたのは、彼らがコンサバティブだからです。 ドイツも南の方に行けばカトリック色が強いから、「女性は家庭に入ったほうがいい」という考えが残っているらしい。「女性は女性の役割を・・・」と考えるのはやっぱりコンサバティブだと思う。ベルリンは、社会主義だった東ドイツ色が強い街なので、あくまで男女は平等。

そういうことも影響してか、ベルリンはすごくニュートラルな人たちが多いので、「女子は女子らしく」なんて考えはあまりないように思う。そもそもゲイ、レズビアン、トランスジェンダーがたくさんいるのに、「女子は女子らしく」って無理ってものだろう。ゲイの方が乙女だったり、レズビアンの方がマッチョだったり、「まーそういうのもあるよね。」という感覚で生きていないと他人を温かく見守れない。とは言いつつ、私はマッチョな女性が結構苦手で、「女子は女子らしく」という概念を取り払った女性たちを見て、肩を落とすというかうなだれることも多い。

ここは自分が自分らしく生きることが許容されている都市なので、社会全体がそういうブームを押し付けてくることはないし、自分が自分らしく生きることを求める人たちが多いので、そういうブームがもしあったとしても、「うーん、自分のスタイルじゃないなぁ」と言って、拒否するだろう。よって、ベルリーナーたちに女子力は支持されないだろう。

そもそもドイツ人からしたら、女性らしさがあるないに関わらず、性別は女性でしょ?というポイントを指摘される可能性だってある。以下、推測および妄想の会話たち。 
料理なんて僕がつくるし、最悪デリバリーでもいいしね。料理なんて出来なくても君は自立した女性なんだし、いいんじゃないかなぁ。あ、化粧なんてしたら、肌に悪いよ、化粧を落とす時の水が海洋汚染に繋がるかもしれないし。化粧してもしなくても君はきれいだよ。え?飲み会の時に料理を取り分ける?いやいやいいよ、だって僕がどれくらい食べるか君しらないでしょ、ていうかそんなの自分でやれるよ。君は自分のことを考えて。日本では、料理を取り分けることが女性の気遣いって言われてる?へー。料理を取り分けるしか出来ない女だったらどうするのさ?ていうかそもそもドイツでは大皿をシェアすることなんてないから、そういう女性の出番はないね、残念だね。

とまぁ、こういう会話が繰り広げられるかは私にもわからない。あくまで推測および妄想です。   

1つ言えることは、女子力が流行っている限り、男女平等な社会なんてやってこないでしょうね、我が国には。誰かそれ、望んでるの? 

やーっとここに辿り着きました!脱線しまくりで、なかなか書けなかった“女子力” について! が、しかし。女子力って、移り変わりの早い日本ではまだインな言葉なのだろうか?私が日本に住んでいたのはかれこれ3年前なので、流行に追いついていなかったらごめんなさい。  あなた、女子力...

やーっとここに辿り着きました!脱線しまくりで、なかなか書けなかった“女子力” について!

が、しかし。女子力って、移り変わりの早い日本ではまだインな言葉なのだろうか?私が日本に住んでいたのはかれこれ3年前なので、流行に追いついていなかったらごめんなさい。 

あなた、女子力ありますか?

が、しかし。そもそも女子力ってなんなの?「女性らしい」って言葉じゃだめなの?
とは言ってみたものの、私でさえ“女性らしい”と“女子力”には大きく隔たりがあるのがわかる。 
前者の響きがたおやかであるのに対し、後者はなんというかフレッシュ感というかきゃぴきゃぴ感というか?

友達に聞いてみたところ、「ネイルをちゃんとやっていたり、お料理をちゃんと作っていたり、かわいいチューハイ飲んでいたり(え?)」すると、「女子力高いね~!」と言われがちなのだそう。

いえーーす!
私、ベルリンでもちゃんとネイルやってます!デコラティブなやつは服装に合わないし、そもそもベルリンでは逆にださく感じるので、ほぼ黒に近い赤を単色塗りしてます! 

料理? ふふふ。
毎日作ってるわよ? お肉を食べないだけではなく、化学製品はほとんど食べないと決めてるの。

かわいいチューハイ・・・は、そもそもベルリンにないから、すっ飛ばしましょう。だって、ベルリンにはないんですもの!

後はなんでしょう? 
メールを打つ時に絵文字がかわいいとか?いいえ、私は絵文字なんて使いません!なぜなら日本人として、私には美しい日本語を守るという義務が・・・あぁ、なんて愛国心に満ち溢れているんでしょう!

あ、中学校の休み時間「XXちゃん、トイレ行こっ!」とよく聞いてたとか? 

・・・・。

『過ぎたるは及ばざるがごとし』とはよく言ったもので、こだわればこだわるほど女子力からは遠い気がする。(そして最後のトイレのくだりはふざけすぎました。ごめんなさい。そして私は、こういう質問をされた時、「??いきたきゃ行けばいいじゃん?」と思う人だった。)そして黒いネイルはむしろ女子力を下げる気すらする。  

私は、きちんとお料理も作るし、身なりもきちんとしてるのに「女子力が高い」と言われたことはない。「女子力」とは料理を作る、身なりをきれいにする等々の先にあるものなのか、もしくはそれ以下の場所に位置しているのか私にはわからないし、心の底からどうでもいい。 

私にとって料理をすることは、自分の体に嫌なものを入れたくないからという理由だし、身なりをきちんとしているのは常に自分が自分に納得していたいから。私は怠ける自分が嫌いなのだ。 

本質を失った女子力の話ではないけれど、女子力を追い求める人たちは自分が何が欲しいのかわかっているのだろうか?求める自分、なりたいと思う自分がわかっているんだろうか? 

私は人は基本的に「なりたい自分」のビジョンを持つべきだと思う。そうすることで、やった方がいいこと、やらない方がいいこと、そういうのがクリアになるからだ。自分として生まれてきて、悲しいことにも嬉しいことにも自分は自分にしかなれないのだから、自分と向き合っていくしか道はない。

 若いうちはいいと思う。ただ、もっと年を取った時に、自分のなりたいビジョンがないと、無駄な情報やどうでもいい人の意見に惑わされて、何がなんだかわからなくなりそうな気がするのだ。その時はもう誰のせいにも出来ない。そしてきっとそういう人は自分で責任も取れない。   

女子は女子であって大いに結構。女性は美しくあってほしい。あくまでもその人がそれを望むなら。 
ただ“女子力”という陳腐な言葉に惑わされて欲しくないだけなのだ。 

先日日本に住んでる友達の男の子から「彼女と別れちゃってさ~」というメールをもらった。要約すると、九州と東京の遠距離恋愛の果てに彼女から「自分はまだやりたいことがあるし、東京を離れる気はない」ということで、別離に至ったのだそう。この話を聞いていろいろ思い出すことや、考えることがあっ...

先日日本に住んでる友達の男の子から「彼女と別れちゃってさ~」というメールをもらった。要約すると、九州と東京の遠距離恋愛の果てに彼女から「自分はまだやりたいことがあるし、東京を離れる気はない」ということで、別離に至ったのだそう。この話を聞いていろいろ思い出すことや、考えることがあったので今回はそれについて。

実際その彼女と会ったこともなければ、詳しい情報も聞いていないのに、彼からもらったメールの中の彼女の印象が「とても自立した女性なのだろう」というものだった。聞けば私の勘は当たっていたようで、海外経験も豊富な女性だったのだそう。そういう女性であれば、前述したように「自分はまだやりたいことがあるし、東京を離れる気はない」と言っちゃうよなぁ、と思った。私の年代(30歳以上)で恋人と別れる理由で多いものが、「彼が結婚を決断してくれなかった」というもの。結婚のために、恋人と別れる人って多い。日本社会でもはや生きていないため正直この感覚は私には理解出来ないのだけれど、前述した女性のようなタイプについては、すごく理解出来るし、共感すら覚える。

なぜなら、私もそうやって大好きな人を切り捨てて、日本を離れたから。 

私は彼のために数年日本にいて、彼のことが大好きだったからその時はそれでいいと思ってたけれど、それと同時に自分の求める人生はこれじゃないということもわかっていた。葛藤の末、ある日私は日本を出た。

と、そのへんの細かい話をすると論がずれるのでやめておくが、最終的にいつかは九州に戻って来て欲しいという彼に「私はもう十分に九州にいたんだし、あなたがオーストラリアに来たらいいんじゃない?」と言ったことがあった。もちろん、答えは、ノー。その時、私は思ったものだ。フェアじゃない、と。そんなの、対等ではないと。
 私は、「結婚したら、専業主婦で」というタイプの女性ではないし、「私を養って!」とか「働きたくない」だとかの依存心もさらさら持ち合わせていないつもりだ。さらには、私はもちろん手に職はないけれど、職はどうにか見つけられるからむしろ男性を養うことだって出来る(もちろん、働かない男は論外だけど、理由があって無職になってしまった場合という意味で)。なのに、彼はどうしてノーと言うのだろう、と。   

日本の社会の仕組みは、一度社会をドロップアウトした人にとても厳しいものだと思う。男性だったらなおさらだ。当時の彼が将来を悲観したくなる気持ちもよくわかる。仕事をやめて、オーストラリアに行ったところで、日本で見える未来は明るいものではないだろう。

 もちろん人によるけれど、これがもし欧米人だったら、「え?オーストラリア?わかった!!行くよ!」となるだろう。というよりも、彼女がその決断をする前に話し合って、二人で決断すると推測する。日本人の場合、さらにはそんな大決断をするのならば、「結婚」という二文字を考えずにはいられないのではないか。これが欧米人だったら、ビザ問題は別として、このタイプの決断が結婚に結びつくケースは稀だと思う。

そう思うと、日本人男性こそ自由な人生を送ることができないということだとも思う。だから、“出来た女性”は彼らをサポートするのだろう。でも、わたしにはそれが出来なかった。だから私は彼を自分の人生から切り離したけれど、そういう意味では彼だって彼の人生から私を切り離したのだ。彼の人生を選んだという点で。お互いが、自分の人生を選んだ。Fare enough、そう思う。

男性の立場的に言えば日本のお国柄上、仕方がないのだろうなと思うし、日本に限らず、「求めるライフスタイルが違う」のであれば、別々の人生を送るしかないと思う。「好きならそんなの関係ない」とか、そういう問題ではない。人生はそんなに簡単には出来ていない。どんなに好きでも、違う道を選択せざるを得ない時だって多くある。泣きながら、断腸の思いで決断した人を一体誰が非難できるというのだろうか。いろんなことに目をつぶっても、これだけは譲れないというものが人にはあるからだ。そして、その譲れないもののために、大好きな人を犠牲にするのは皮肉なことだけれど。 

先日、“女子力”と“尽くす”というキーワードが出て来たので、今回はそれらについて掘り下げた話をしたかったのだけれど、またも“本質を追求する”ネタ。先日のブログのエントリーを書いた後、思い出したことをどうしても書き留めておきたかった。 オーストラリアに住んでいた時、日本人の女の...

先日、“女子力”と“尽くす”というキーワードが出て来たので、今回はそれらについて掘り下げた話をしたかったのだけれど、またも“本質を追求する”ネタ。先日のブログのエントリーを書いた後、思い出したことをどうしても書き留めておきたかった。

オーストラリアに住んでいた時、日本人の女の子4人くらいでランチやカフェをする機会が多く、「じゃあ、XX日の日に集まろう」となって、「場所は、お店はどこにする?」という会話になった時のこと。とある女の子が、「どこでもいいよ~」といつも答えてた。

どこでもいい、なんでもいいってなんなのさ?そんなの、私だって何でもいいし、どこでもいいよ。 その子は他人に同調するというか、気を使ってそういう風に言ってんだろうか?XXちゃんが行きたいところでいいよ~(ニコニコ)的な?

はっきり言って、その気の使い方、心の底から無駄だと思う。その変な気の使い方のせいで、私(もしくは別の人)が、インターネットで検索して、予約しないといけないことになる。元々外食が好きで、食事にエンターテイメントを求めるタイプで、いろんなお店を知っているならまだしも、私だってよく知らない。お店を検索して、予約の電話して、空いてなかったらまた検索して・・・って地味に時間がかかるし、面倒だ。それでも私はそういう風に他人に時間を使わせるくらいなら、自分でやる。私にとっては、そっちの方が“気を使う”ことの本質だと思うからだ。「なんでもいいよ」と言うタイプの女性は一件気を使っているように見えて、正直に言って何もしてない。

また、「なんでもいいよ」という回答の背景にあるものが気使いではないとして、本当に「どうでもいい、なんでもいい」時ももちろんあるだろう。それは私だって同じだ。だけど、「X月X日に食事をする」ことが決まっていて、その日までにお店を決めないといけないことが決まっているのに、“お店を決定する”ことを先延ばしにするメリットが私には理解出来ない。「なんでもいいよ」なんて返信しても、目標到達に一歩も前進しないことは明らかだからだ。せめて曖昧なアイディアでもいいから捻出して、目標到達に尽力すべきだと思う。時間をかけてじっくり話し合った方がいい場合だってあるだろう。だけど例えばこの場合のそれは、無駄以外の何物でもない。

日本にいた時、こういう機会はやたらたくさんあった。そして「気が使える人」「空気を読める人」と世間が見なすのは私ではなく、「なんでもいいよ~」と同調する人のように感じてた。すごく理不尽だと思ってた。そして決定を行える人や、きちんと自分の意見を言える人が「わがまま、強い」という負の称号を与えられることに関しても。こういう些細なことたちが、私を海外に放出させたのではなかろうかとも思う。 

表面的な気の使い方、礼儀的、義務的な気の使い方なんてさらさら必要ないと思うけれど、外国においても気が使える女性は素敵だし、そういう女性になりたいとも思う。ただ、その「気を使う」ってことの本質を見失うと、逆に人をいらいらさせてしまうということもあるものだ。  

日本人が外国人に対して「気を使わない」という固定観念があるのは、この“気の使い方”の概念が違うからだと思う。日本的な気の使い方をする人はいないけれど、本当の意味で他人を思う人は世界中どこにだっている。そしてそういう本質的な気遣いはとても心温まるものだ。

日本人はもう少し“現象”という無駄をそぎ落とし、本質を見るめる必要があるのではないだろうか。でなければいつまで経っても島を出る日は来ないだろう。

結構前からブログに書きたいと思っていたのに、先延ばしになっていた話題を書こうと思う。 少し前のことになるが、姉から興味深い話を聞いた。 姉が何気なくテレビを見ていたら、女芸人たちが(誰かは知らない)タイレストランでタイ料理を食べていたそうな。そこで、一言。  「女子力...

結構前からブログに書きたいと思っていたのに、先延ばしになっていた話題を書こうと思う。

少し前のことになるが、姉から興味深い話を聞いた。

姉が何気なくテレビを見ていたら、女芸人たちが(誰かは知らない)タイレストランでタイ料理を食べていたそうな。そこで、一言。 

「女子力、高くない?!」

姉はこの一言に激しく違和感を覚えたそうだ。「タイ料理?女子力??」 
(これが結びついたあなたはきっと女子力、上級者でしょう、ふふふ)

また別の日、彼女の知り合いの若い女の子と久しぶりに偶然再会した時のこと。姉の前髪を見て彼女はこう言ったそうだ。

「私、前髪切れないんですよ~。彼が前髪長い方が好きだって言うので~」 (しゃべり方は想像にお任せします) 

そこでまた、姉は心の底から違和感を覚えたそうだ。 そこで、ちょっと反撃を試みてみたらしい。
「だったらさ、一生好きな髪形に出来ないじゃない?」
そして放たれた次の言葉に絶句した。

「私、尽くすタイプなので~」

皆さん、この2つの例、どう感じましたか? 
私は、前者についてはなぜタイレストランに行くことが「女子力が高い」のかまったくその思考回路が理解できないのだけど、誰かこうじゃないという意見のある人はいるだろうか?

想像するに、女芸人たちは世の“女子力が高いといわれる素敵女子”たちがタイレストランにて、「今、タイレストランで女子会中~☆」なんてSNSでアップしているのを見て、「うわ、女の子らしいなー」と日ごろ感じていたのだろうか。それでタイレストラン=女子力高いと言ってしまったのだろうか。

“尽くす”発言に絶句した姉は、「いや、尽くすってそういうことでは!」と思ったのだそうだ。

そう、この二つの話、激しく本質を欠いている。この話をドイツ人が聞いたらどういう反応をするのだろうかなんて1人で想像して笑ったしまった。そもそも“女子力”をドイツ人が理解出来るか置いといて、そもそも“尽くす”という概念をドイツ人が理解出来るか置いといて、この本質を欠いた話をドイツ人は理解出来ないだろう。(“女子力”も“尽くすこと”もドイツ人が理解出来るとは到底思えないけど、またそれは別の機会に)

日本を離れて恋しいものもたくさんあるけれど、こういう謎の思考回路を持つ女性と話さなくてよくなったことは心の底から嬉しい。

「ドイツ人と日本人は似ている」と多くの日本人が思っている。真面目で勤勉、時間に正確。でも、それもすごく本質を欠いていることだと私はよく思う。結果的に“真面目で勤勉、時間に正確”な国民性になったとしても、そこまでに至るプロセス、考え方、メンタリティがまったく違うと思う。例えば、「時間に正確」ということをとっても、日本人の場合は「相手に悪いから」と相手への配慮から来るものだとしたら、ドイツ人の場合は「非効率だから」という風に。最終的に結論が一緒なだけで、メンタリティは似ても似つかないと思う。 

万が一、ドイツ人に「女子力を高めたい人」や「尽くしたいタイプの人」がいてもそれは自分がやりたいからであって、流行に乗るためや、相手のためではない気がする。それはとても大きな差だ。

本質をどこまでも追求していくドイツ人、そして現象を追及していく日本人。我々は一体どこに行くのだろうか。このタッグ、とても最強ではないかと思うけれど、絶対合わないよね~

一泊二日でドイツ北部のエルベ川沿いの街、ハンブルクへ行ってきました。 ハンブルクはあまり日本人にはあまり知名度こそないものの、ベルリンに次ぐ第2の都市、生活水準は1番高い都市とされている。と、思って調べてみたらドイツではミュンヘンが1位だった。そして2番目はなんと我らがベルリ...

一泊二日でドイツ北部のエルベ川沿いの街、ハンブルクへ行ってきました。

ハンブルクはあまり日本人にはあまり知名度こそないものの、ベルリンに次ぐ第2の都市、生活水準は1番高い都市とされている。と、思って調べてみたらドイツではミュンヘンが1位だった。そして2番目はなんと我らがベルリン!えーベルリン?こんな貧乏な街が?うーん。
こほん、では言い直そうではないか。ハンブルクはドイツで最も生活水準が高い都市の1つである。

人の雰囲気としてはドイツ人と言うより、デンマークに近いのかな?という気がした。ハンザ同盟で古くから開けている都市だけに、インターナショナルな感覚が染み付いてる感じだった。そして建物のきれいなことよ!西側はやっぱり違うなぁ、華やかだなぁ(完全に東の人の感覚。なぜだ!)。ヒールを履いている女の子も多い。ベルリンは道を補正するお金がないから、道ががたがたで誰もヒールなんて履いていない。ヒール派の私でさえ!
 ハンブルガー、皆、小奇麗にしていた。ブランド物を持ってる女性も多い!まるで外国に来たようだ・・・誇張ではなく、そういう感じ。海までは距離があるけれど、エルベ川がとてつもなく大きいため、ハーバーさえあった。おかげでとっても寒かったけれど、ベルリンとはやっぱりまったく雰囲気が違った。ハンブルクも戦争でほとんどの建物が焼けてしまったらしいけれど、ハーバーがあって潤っていたので、比較的早く復興しただろうし、分断されてしまい復興が大幅に遅れたベルリンとの違いを感じずにはいられなかった。  

今回私は友達カップル(タイ人女性、ドイツ人男性)を訪ねたのだけれど、さすがはドイツ人。まるでツアーガイドのように生真面目に案内してくれた。
「これはなんとかっていう建物で、第二次世界大戦の時は云々」
「えーこれはなんなの?何のための建物なのさ?」「これはハンザ同盟の・・・」
「んじゃ、これは?」 「・・・僕も知らない。ちょっと待って」
数分後、スマートフォンで調べて完璧なまでの説明をしてくれました。ブンダバー!(ドイツ語でワンダフルの意味)
3月にスペインに行った時スペイン人の友達に
「ねーこれってなんなの?内戦に関係あるのかな?」
と聞いたところ、
「えみ!そんなことは前もって聞いてくれないと!調べてきたのに!」(つまり、知らない) 
・・・。大違いだぜ。 

説明に聞き入っているうちに思ったことは、ドイツ人は第二次世界大戦に対して大罪を背負っている分、きちんと勉強してるんだろうなと気がした。ドイツがなぜナチを生んで、欧州を巻き込んだ戦争に突入したのか、説明できないドイツ人はいないんじゃないだろうかとさえ思った。そして日本は・・・きっと説明できる人が少ない。
この差が、罪を償っているかそうではないかの差だろうと思った。 

この日は各地でいろんなイベントをやっていて、幸運なことに市庁舎の中に入れた!そこにはなんともゴージャスな空間が。夜な夜な舞踏会が開かれてもおかしくはないスペースが存在していた。
私、ドイツを勘違いしていたんじゃなかろうか。「ベルリンは特別」とわかっていながらも、本当のところはわかっていなかったのかも。“西側”はこんなにも栄えていたんだ。

とっても洗練されたハンブルク旅行、満喫~と行って終わりたいところだけれども! 
11時すぎ繁華街を歩いていたら、怒涛のセックスショップ発見!道を本当に埋め尽くすほどのいかがわしい店たちよ!新宿歌舞伎街の雰囲気がそのままドイツにも存在していた。欲を追求していくと、結局ここに行き着くのだな、人間は。
話は少しずれるけれど、とあるドイツ映画の感想を「どこまでも真面目なドイツ人。変態映画のはずなのに、どこまでも真面目に変態な映画だった」と書いてた人がいたことを思い出した。どうなの、ゲルマン民族たちよ!!

いろんな意味で興味深い旅行でした。
日本人はきれいなハンブルクが好きだと思うけれど、やっぱりベルリンに勝る都市はないなと思った旅行でした。 

どこで働いているのか公表すると仕事に差支えがあるので公表しませんが、本日は職場のことをちょこっと書きます。 今働いているところは、とてもワールドワイドで同じチームにすごくいろんな国籍の人がいます。英語が公用語だけれども、毎日いろんな言語が聞けます。いろんな国の人の中で働けるっ...

どこで働いているのか公表すると仕事に差支えがあるので公表しませんが、本日は職場のことをちょこっと書きます。

今働いているところは、とてもワールドワイドで同じチームにすごくいろんな国籍の人がいます。英語が公用語だけれども、毎日いろんな言語が聞けます。いろんな国の人の中で働けるって自分がすごく理想としていた環境だけに、いやなこともたくさんあるけれど楽しみながらやっています。

私の隣の隣の席の人がゲイなんですが、こないだチームミーティングがあった時に、「ねーねー、今日は何のトピックについて話すのかしら?あ、そうだ、自分の目の前の人とキスしてからミーティング始めるってど~おぉ?」なんて言い出すもんで、みんな爆笑。彼の目の前がイケメン・オージーで、オージーの彼が「じゃあ・・・」なんて言ってゲイの男性に近づいて言ったもので、「ついに~!!ウェルカムよ!!」って言って喜んでて、本当におもしろかった。また別の日はこれまた別のゲイの男性がレインボーの旗を振りながら、こちらに嬉しそうにやって来たときの、平和な感じと言ったら!「あら、素敵なピアスね~80’sね!」と褒められました。そして今日、私の席の後ろの男性が「明日から3連休なんだ♥アムステルダムの彼に会いに行くんだ~♥」と言っておりました。ゲイ率、高し。日本はまだゲイ・レズビアン・トランスジェンダーがこんな風にオープンに働ける環境ではないと思うので、やっぱりベルリンのこういう雰囲気が大好きです。

社員の働き方もとっても革新的。日本で言えば働き盛りの男子でも、普通にパートタイマーです。「他になんか仕事してるからパートタイマーなの?」と聞いてみたら、「ノー。ただライフを楽しむためだよ」との答え。だよね。私もビザの状況が許せばパートタイマーがいい。いろいろやりたいことあるし。「きちんと働いてなかったら負け組」的な日本とはアイディアがまったく違うなと感じます。派遣社員や非正規社員の敗北感や後ろめたさは彼らにはありません。“自分の選択”ってことが大きいのかもしれません。それぞれ、自分のライフを生きています。苦しみながら、生きたいように。
 もちろん、こういう人生がいいというわけではなく、自分で選べるということがいいと思っているだけです。働きづめの毎日が好きな人もいるでしょう。その人はそうやって生きていけばいいと思うんです。納得して、自己責任で。 

「外国ってそうなんだ~」と勘違いされても困りますが、きっとベルリンがそういうところなのだと思います。「自分が納得できなかったら、意味無いじゃん?」的な人の集合体、それがベルリンです。少なくとも、私にとっては。それがベルリンをベルリンたらしめる理由かもしれません。
 ドイツの他の都市は皆もっときちんと働いていることでしょう。ではないと、欧州の優等生の地位は築けませんからね。そしてそれが他のドイツの都市から「ベルリンなんて、あんな貧乏な街!」なんて言われる所以なのでしょう。 

しかし一度この緩さを身に付けてしまったら、もう日本に戻れる気がしないのも事実ですね・・・  

最近とっても興味深かったことを。 先日出会ったスペイン人の男の子から、 「サンミゲル(スペインの代表的なビールのこと)が倉庫にしまったままだったから、冷蔵庫に入れてた方がいいかな」(意訳)という本気でなぞなぞのようなメールをもらった。先日、「サンミゲル、懐かしいな~久しぶり...

最近とっても興味深かったことを。

先日出会ったスペイン人の男の子から、
「サンミゲル(スペインの代表的なビールのこと)が倉庫にしまったままだったから、冷蔵庫に入れてた方がいいかな」(意訳)という本気でなぞなぞのようなメールをもらった。先日、「サンミゲル、懐かしいな~久しぶりに飲みたくなっちゃった」という話をしたことを鑑みると、「君がいつでも飲みに来ていいように、冷やしておくね!」ってことなんだと思うけど、いきなりこういうメールをもらっても、意味が全然わからない。 

メールをもらった瞬間、「・・・で!?」と思ってしまった私。だいぶドイツ人の直接的言い回しに慣れてしまったということなんだろうか。まさに松尾芭蕉の俳句を聞いた後のドイツ人の反応のようだわ。(*注:『古池や かわず飛び込む 水の音』というかの有名な松尾芭蕉の俳句をとあるドイツ人が聞いた時、「・・・・で!?」と思ったという話)
 
 
 ドイツ人とこういうやり取りをしたことがないのでドイツ人がこういう時どうやって女の子を誘うのかよくわからないのだけど、間違ってもこういう言い方はしないだろうと推測する。

別の日、別のスペイン人からのデートのお誘い。
「今日、XXっていうコメディショーを見にくよ。9時からだったと思うなー」

・・・・。

通知!?

私は本気で頭を抱えたよ。英語だとWould you like to come with me?とか付くからわかりやすいけど、これはお誘いなのかただの通知なのか、真剣に悩んだ。ただの通知だった場合、「誘ってくれてありがとう!」と言ったら「勘違いしてんじゃねーよ、誘ってねーよ、報告だよ」ってなる可能性がある。でも、何回かこういうやり取りが続いたから、お誘いだったのだろうと判断。
スペイン人、そしてイタリア人、やつら、こういう誘い方します。わかりにくい!  
彼らの表現の仕方って婉曲なんだよね。そしてたぶん、表現にユーモアを含ませようとするし、女性のエスプリも期待してるというかチェックしてるというか、そもそも会話を楽しみたい人たちだからか、なんだか的を得ない表現になるんだと思う。

その点、ドイツ人。

ストレート。いや、ドイツ人とデートしたことはおろか2人で食事したこともないから聞いた話でしかないので、実体験として話せないのが非常に残念だ。質問も的確だし、ポイントを抑えて、ずばりストレートに聞いてくるから、会話にまったくの無駄はないけれど、その点が「ドイツ人はつまらない」と言われる所以なのだろうとも思う。ドイツ人とデートしてる日本人女性が、「誘われ方があまりにストレートすぎて事務的に聞こえて、誘われてるって途中まで気が付かなかった」と言っていたくらい。スペイン人やイタリア人と会話するときの、めんどくさいけど、「んもう♥」みたいな感じはないのだろう。あくまで、一般論だけど。なんとも、逆に興味が湧くではないか、ゲルマン民族たちよ! 

スペインイタリアとドイツの中間点に位置するフランス人男性はどうなのだろう。フランス人男性、よくよく考えてみたらデートしたことないや。誰か詳しい方、教えてください。

いやいや、フランス、ロマンスの国ですよ、イタリア、スペインなんかに負けない底力を見せて欲しいものだ。(え?笑)  

 ベルリンでの日々のことを少し。 昨日は友達の合同誕生日会に行ってきました。19時開始だったけど、21時くらいに行ってもまだあまり人はおらず。張り切って19時に行かなくてよかった~。Wedding 近くのバーでの開催だったのだけれど、食べ物は主催者持ち込み、飲み物は自分で買うと...

 ベルリンでの日々のことを少し。
昨日は友達の合同誕生日会に行ってきました。19時開始だったけど、21時くらいに行ってもまだあまり人はおらず。張り切って19時に行かなくてよかった~。Wedding 近くのバーでの開催だったのだけれど、食べ物は主催者持ち込み、飲み物は自分で買うというスタイル。オーストラリアもドイツもそうだけれど、誕生会は誰かにやってもらうものではなく、基本的に誕生日の人が発起人で、主催者となる。でも昨日は主役の1人がバーテンをこなしてて、「え?主役なのに?」と結構びっくりした。斬新。

今回の主役は、ボリビア人とドイツ人のカップルだったのだけれど、友達もやっぱり南米の子たちが多かった。先日からブラジリアンポルトギースがすごく気になっているのだけど、ラテンアメリカのスパニッシュもとってもキュートだった!スペイン人のそれと比べたら、とっても柔らかく聞こえる。そこに1人スペイン人の男の子がいて、その子と話してたらやっぱりアクセントでスペイン人だとすぐわかる。英語で例えたら、アメリカ人の中にイギリス人が1人混ざっている感じかな。しかもそのスペイン人、ガリシアの出身だったので、マドリアーニョ(マドリッドの人たちのこと)のそれとはまた全然違ってそれもまた興味深かった。しかしその人に、「君のスペイン語のアクセントはイタリア語みたいだね~」と言われる。・・・。最近あまりにイタリア語漬けなので、イタリアアクセントになってしまったのだろうか。金城武の広東語はアメリカ訛りだと香港人の子が言ってたことを思い出した。と、得意の話の脱線。

いい感じの時間になってきたら、バーはレゲトンで溢れていた。やっぱりさ、南米の子たち、踊り上手だよね。特にレゲトンとかラテンミュージックは強いよね。見ていて惚れ惚れする。こういう時にドイツ人みたら、いい友達になれそうだと思うんだけどね。私は、クラビングするならばっきばきのテクノが好きだけど、たまにはレゲトンも悪くない。そうやって夜は更けたのでした。  

合わせて、別の友達の誕生会(ドイツ人)のこともとてもおもしろかったので、書きたいと思っていたけれど、長くなったので、また別の機会に!

アディオ~(本当はアディオスだけど、南米のスペイン語は、Sを発音しないことが多い。)
 

あれもこれも書きたいと思っているのに、まだまだ書いてないことがたくさん。女子力のことや姉から聞いた話、カートの命日に向けての話・・・もっともっと日々のこと。 先週のことになるが、日本人の友達と夜10時に集合して、朝6時まで話し倒す(この日サマータイムが始まったので、実際は気が...

あれもこれも書きたいと思っているのに、まだまだ書いてないことがたくさん。女子力のことや姉から聞いた話、カートの命日に向けての話・・・もっともっと日々のこと。

先週のことになるが、日本人の友達と夜10時に集合して、朝6時まで話し倒す(この日サマータイムが始まったので、実際は気が付けば7時だった)。この友達というのが、よくもまぁこんなに似た思考回路と歴史を持った人間がこの世にいるもんだというくらい自分に似てる。性格は結構違うと思うけど、いろんな話をしては、自分たちのあまりの相似性に2人でびっくり。

その友達が、私がちょっと前に少し書いた『私の骨』というブログのエントリーをすごく褒めてくれて、すごくすごく嬉しかった。「感動して、しばらくパソコンの前から動けなかった」と言ってくれて時、私は本当に嬉しかった。母の誕生日に製作した絵本について、「続きが読みたい!」って言ってくれた唯一の人だった。彼女の感覚が私と似すぎているせいだと思うけれど、それでもこんな風に感じてくれる人がいるってことが心の底から嬉しかった。 

私のブログなんて役立つ情報なんて何もないし、文字ばっかりだし、意を決してFBに「ブログやってます!」と紹介してみても、反応なんてまったくないし(でも外国に住んだことのある人は共感して、わざわざメールまでくれた)、自分の書くことなんて他人からしたらどうでもいいことなんだろうなと思うことばっかりだ。私の作品(こういうブログの軽い文章ではなく、もっとちゃんとした文章のこと)を読んだ人に感想を聞いても「一般受けはしないと思う」と言われることばかりだ。そう言われる理由は私にだってわかる。

その一方で、私がもし一般うけするような文章を書いたら(書けるか書けないかは別にして)、私はたぶん私の友達のような感想を持ってくれる人を失うだろう。

少し話が脱線するが、先日、あることがきっかけで「この世は、マジョリティの人を幸せにすることが義務なのであって、マジョリティを幸せにするにはマイノリティの犠牲が必要不可欠なんだ」と痛感したことがあった。私はマイノリティにフォーカスした生き方をしたいと思った。私はそういうものを伝えていきたいと思った。マジョリティにフォーカスするのはきっと他の人がやってくれる。それは私の仕事ではない。 

そう思えた瞬間、心が晴れた。完全な開き直りだけど、それでも自分の何かが解放されたことも事実だ。優先順位を見誤って無駄なことをするには人生は短すぎる。自分が何を欲しくて、何が欲しくないのか、私はわからないようにはなりたくない。    

日本にいる時は「認められなければ意味がない」と思ってたけど、ここベルリンでは認められることなんて2番目以下でしかない。「自分がやりたいことをやりたいようにやればいいじゃん?じゃなかったら、意味ないよ」と貧乏な、認められるアテもない無名の芸術家たちは言うと思う。
 シンプルだけど、それがやっぱり1番大事なことだと思える。それをやって、誰かが認めてくれてらハッピーだよね、というスタンスで。
  
私はこの自由に満ち溢れたベルリンにいる機会を得た。それはやっぱり私にとって、そして前述の私の日本人の友達にとってもすごく幸福なことだと思う。

ベルリンはそういう街。ホープレスたちが夢を見れる街なのだ。




レスリー・チャンのことを4月1日にどうしても書きたくて、もう1時間半も書き出しを考えている。そして1時間半も考えているのに、言葉が出てこないから、こういう書き出しになってしまった。 「ブエノスアイレス」「欲望の翼」という、香港の鬼才・ウォン・カーウァイの映画をご覧になった方が...

レスリー・チャンのことを4月1日にどうしても書きたくて、もう1時間半も書き出しを考えている。そして1時間半も考えているのに、言葉が出てこないから、こういう書き出しになってしまった。

「ブエノスアイレス」「欲望の翼」という、香港の鬼才・ウォン・カーウァイの映画をご覧になった方がいるだろうか?他にもレスリー・チャンの出演している映画で好きなものはあるけれど、この2つは私の特別好きな映画だ。「ブエノスアイレス」は映画を観終わった後になんだかその映画自体を抱擁したくなるような甘い刹那さに満たされた映画だったけれど、「欲望の翼」は人間の中に潜む孤独に気が付かされるようなそんな映画だと思った。レスリー演じる主人公の心が静かすぎて、恐ろしくなるのだ。それは自然に対峙する時の恐怖心に似ているかもしれない。 

そして彼は、スクリーンの中でいつもあきらめたように笑っていた。私は憂いを帯びた仔犬のような瞳から目が離せなくなって、彼の映画を何本も観た。先ほど挙げた2本の映画と「覇王別姫」が特別好きだった。

彼の新しい映画を観ることはもう出来ない。彼のことを大好きな私たちがどんなに望んでも。

2003年の4月1日、香港のマンダリンオリエンタルから身を投げて、彼はこの世を去ったからだ。 

私は今日1日彼のことを考えていた。マンダリンオリエンタルから最期に見た景色はどんな風に見えたんだろう。誰もその景色を共有出来ない。その瞬間を思うと、この世には希望すらないように思える。全てが息吹く希望に満ちた4月に、自らの命を絶ちたくなるほどの絶望に立ちすくむ。私の愛するカート・コバーンも自らの頭を銃で撃ちぬいたのは4月だった。甘い花の匂いや木漏れ日や頬を撫でる温かい風さえ、彼らの魂を救えなかった事実に愕然とする。レスリー・チャンが死を選んだのはエイプリル・フール。香港の人はこの国民的スターの訃報をどういう気持ちで聞いたのだろう。悪い冗談だ。きっと多くの香港人がそう思っただろう。レスリーはもしかしたら、自分の存在を否定する意味でこの日を選んだのかもしれない。

毎年4月1日にはマンダリンオリエンタルの前に花が手向けられると聞く。その花たちに、彼の魂が少しでも癒されていてくれれば良いけれど。 

僭越ながら、昔書いた「欲望の翼」の感想。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1730593526&owner_id=37572325


**追記**以下のリンクは見れませんでしたので、新たに張りました。ごめんなさい。 
ブエノスアイレス(原題/Happy Together)
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="270" src="//www.youtube.com/embed/cMx0UgohOfE" width="480"></iframe><br />

欲望の翼(原題/Days of Being Wild)
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="270" src="//www.youtube.com/embed/6cExEkJjyD8" width="480"></iframe><br />

覇王別姫
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="344" src="//www.youtube.com/embed/VKHwZr6X3Og" width="459"></iframe><br />