雑誌を買わなくなって久しくなる。最近はインターネットで情報を簡単に得られるため、お金を 出してわざわざ雑誌を買うことが少なくなったのだけれど、たまに覗く、ウェブ版VOGUE JAPANの特集で、とても心が躍る投稿を見つけた。創刊15周年ということで、15年分のカバーを一...



雑誌を買わなくなって久しくなる。最近はインターネットで情報を簡単に得られるため、お金を
出してわざわざ雑誌を買うことが少なくなったのだけれど、たまに覗く、ウェブ版VOGUE JAPANの特集で、とても心が躍る投稿を見つけた。創刊15周年ということで、15年分のカバーを一挙に公開!というもの。このモデル、懐かしいなー、富永愛ちゃん若いなーなんて思って歴代のカバーガールたちを眺めていた。VOGUEは基本的に「小娘なんてお呼びじゃないわよ」みたいな雑誌だったので、10代の頃はただ憧れるだけで、あんまり買ったことはなかったのだけれど、今でも強烈に覚えているのが、上記のカバー。2001年、私が高校3年生の時、今は無き上峰サティの本屋(超地元ネタでごめんなさい)でこのカバーを発見し、「私はこの雑誌を今買わなくては!」と、胸をどきどきさせながら買ったことを覚えている。特集の名は『Sexy』、そしてサブタイトルは「セクシーで、わるい?」。なんてかっこいい特集なんだろう。ど田舎に住む女子高校生が、どきどきしながら1ページ1ページ捲っている姿は簡単に想像出来るだろう。見てはいけない、でもその先が見たい!という思春期のあのどきどきよ。 

その頃大好きだった元日本代表の中田選手のインタヴューや、当時神のように崇拝していた山田詠美の短編小説が収録されてたことも、少女の心を高揚させたものだ。(「好きな女性は?」と問われ、「マチュアな女性」と答えて私をしびれさせた中田選手が、その後“自分探し”の旅へと出た時のショックは置いておいて)

細かいことは忘れてしまったけれど、「セクシーの定義10項目」みたいなものがあって、「トートバックを持たない」などのどうでもいいことから、「セクシーであることを恐れない」、それから「都会の孤独を楽しめる」みたいな項目で終わっていたと思う。雑誌から伝わってくる「タブーを恐れないこと
」「タフでいること」「自立していること」それから「媚びないこと」等の女性像は本当に小娘には刺激的だった。雑誌の方向性、読者層の違いだとはわかっていても、「モテコーディネート♡」「モテ髪♡」のようなセンテンスはやっぱり今でも魅力的だとは思えない。いえ、あくまで個々の趣味の話ですけど。さっき書いた「「小娘なんてお呼びじゃないわよ」という雰囲気は、裏を返せば「少女よ、はやく大人になりなさい。大人の女性はこんなにも素敵なんだから!」というメッセージのように思えた。「女はセクシーでこそ女だ!」と心に刻んだのもこの頃。そして“Beauty is Pain” (美しさとは痛みだ=おしゃれは我慢、のこと)だと学んだのも。 
 
しかし・・・17歳の頃の自分がなりたかったような女性に果たして自分はなれているのだろうか?
それは甚だ疑問だ。

でも今だったら、足をマメだらけにして血まみれでよれよれになってもハイヒールで歩くことより、フラットシューズで姿勢を正しく歩くことが美しいと思う。でもそれは痛みを経験したことのある女性だからこそ、美しく歩けるのかな、とも。もしくは痛みがなくなるまで、ハイヒールで歩き続ける気高い女性とか。それはファッションでなくても、人生においてもきっと同じことだと思うのだ。

でも私、自分が男だったらハイヒールを脱いだ時に、女性の足が傷だらけだったらなんかとても愛しくなってしまいそう。もう、いい大人だからそういうこと、ないけどね。そういう痛みですら、なんだか懐かしい。 

Rome is not built in a day(ローマは一日にしてならず)をもじったBeauty is not built in a dayというセンテンスが好きなのだけれど、セクシーもきっと一日にしてならず。精進致す所存。痛みから解放された後、次に来るセクシーの大敵は、その名も『惰性』。あぁ、体はすでに蝕まれている。回復の見込みはあるのか? 自分に渇。 

TGIF! (神様ありがとう!金曜だ!の意味) 金曜だし、週末久々の休みだし、嬉し~!16時半に仕事が終わったので、家に帰ってちょっと休んでお出かけしよう~と思って、ベッドの上でごろんとしながらフェイスブックを開いたら、完全に見てはいけない動画を見てしまった。 PETA(動...

TGIF! (神様ありがとう!金曜だ!の意味)
金曜だし、週末久々の休みだし、嬉し~!16時半に仕事が終わったので、家に帰ってちょっと休んでお出かけしよう~と思って、ベッドの上でごろんとしながらフェイスブックを開いたら、完全に見てはいけない動画を見てしまった。

PETA(動物愛護協会)の投稿で、「あなたの食卓に並ぶベーコンやソーセージはこうやって作られてます」という趣旨の内容。狭いゲージに入れられた豚たちや、鉄の棒で叩かれる様、それから生後間もない子豚が“モノ”みたいに床に叩きつけられる様子が一部始終録画されている。

詳しいことは書かないけれど、はっきり言って人間やめたくなるような動画だった。私・・・こうやって虐待されて、殺された豚のお肉なんて食べたくない・・・!!

この世にはなんて残酷なことがあるんだろう。私たちが動物を殺さなくていいのは、自分の手を汚さなくていいのは、誰かが私たちの代わりに動物を殺してくれるからだけど、私、この虐殺に加担したくない・・・! 

大昔、金融の会社で働いていた時、100万円の定期を作りに来た人に対して、「100万くらいの定期なんて別に珍しくもなんともない」と思ってしまっていた自分と同じように、屠殺場で働く人は感覚が麻痺してしまうのだろう。100万をどんな思いで貯めたのか私は何も知らないのに。自分が死にたくないと思うことと等しく、子豚だって、毛皮のために殺される狐だって死にたくないと思っている筈なのに。

だったらせめて、一思いに殺してあげて欲しい。何の痛みも苦しみも感じないように、一瞬で殺してあげて欲しい。でも彼らにとっては、人間以外の命なんて瑣末なものでしかないのだろう。そしてある種の人間にとっては、人間の命だってどうでもいいことなのだろう。

今日からいきなり冬になったベルリンのオラニエストラーゼを歩きながら、この動画のことを考えていた。ふと大好きな映画「Never let me go 」のことを思い出した。不健康な“人間”のために、『臓器提供』のために人工的に作られたクローンたち。自分には“心”があって、人を愛することも出来るのに、一体、自分たちの何が“人間”と違うのだろうか?という問いかけで映画は終わる。 

原作はカズオ・イシグロの同名の小説なのだけれど、私はこの映画以上に救いがなく、悲しい内容の映画を観たことがない。その悲しさは手塚治虫の鉄腕アトムに通じるものがある。クローンとロボットの違いはあるけれど。 

スーパーに並ぶ肉がどうやって作られているかに興味があるのだったら、ぜひ動画を見て欲しい。 
でもこの世には知らない方がよかったことがたくさんあるな、と思ったのも事実。  

https://www.facebook.com/officialpeta?fref=photo

動画がそのまま貼り付けられなかったので、PETAのFBページ張ります。 
これ系のネタはもう今後書きたくないなぁ。気持ちが荒む。 

 生活の拠点が外国になって数年経ったけど、最近自分に思いもよらない変化が。 日本食が、途方もなく恋しい。 私は基本的にどこの国に行ってもなんでもおいしく頂ける人で(でも日本のチェーン店とか、ファミレスとかそういうものは無理)、今でこそお肉を食べないけれどほとんど好き嫌いも...

 生活の拠点が外国になって数年経ったけど、最近自分に思いもよらない変化が。

日本食が、途方もなく恋しい。

私は基本的にどこの国に行ってもなんでもおいしく頂ける人で(でも日本のチェーン店とか、ファミレスとかそういうものは無理)、今でこそお肉を食べないけれどほとんど好き嫌いもないので、「日本食しか食べれない!」「白米が恋しい!」とかそういう願望もほとんどない。外国に住める人、住めない人で最初に振るいにかけられる条件が『食事』だと思う。日本のふっくらご飯を毎日食べたい人だったら、やっぱり外国で暮らして行くのは大変だと思う。その点、私はひたすら“洋食”が好きだったので(と言うより、食にそもそも関心がなかった)、今までなーーんの問題もなく暮らして来た。が、30歳を過ぎての体の変化は唐突に。 

醤油が恋しい、出汁が恋しい、お味噌が恋しいぃ!! 

ほとんど和食食べない生活をしてたけど、最近ひたすら日本食。母の手作りのお味噌をベルリンまで持って帰ってきて、お味噌汁を作って「はぁ~落ち着く~」と言っている。ちょっと前までは、お味噌汁に豆板醤入れたり、大好きなパクチー入れたり、明らかにシンガポール時代の名残のまま過ごしてたけど、最近はあっさりのお味噌汁。わかめ入れたやつね。 

そして南部鉄の急須+茶たく+湯のみで緑茶で〆ている。しかも現在は、佐賀が誇る嬉野茶、福岡の八女茶(うちの家はこっち派)、それから京都で買い付けた宇治茶を飲み比べしている。贅沢~。こないだは友達が持って来てくれた小城羊羹で、一息。落ち着く~小城羊羹、なんておいしいの!(と、ちゃっかり地元・佐賀の宣伝をしてみる)

人間は年を取るとさっぱりしたものを欲すのか、それとも結局生まれた国の習慣に戻ると言うことなのだろうか? 

今は私の食生活は野菜と乳製品が中心で、お肉は食べないし、お魚もほとんど食べないけれど、将来的にはお魚も卵も乳製品も絶つことにも興味がある。いわいるヴィーガン(完全菜食主義)なのだけれど、自分の理想はやっぱり“精進料理”だなと思う。別に自分は宗教的な人ではないし、お経も唱えられないけど、なるべく殺生をせず、食事にストレスをかけずに生きていくことが理想。 
そういうコンセプトを追求していくと、結局日本食にたどり着く。いろんなことを経験して、結局廻り巡って自分の国に辿り着くという人生の不思議よ。 

数年前まで、「料理する暇あったら本読みたい、時間がもったいない」と本気で思ってたけど、今はゆっくりご飯を作って、ゆっくり食べたい。そしてゆっくりお茶を飲みたい。心の栄養が本だとしたら、体の栄養はやっぱり食事から。自分の体を労われってこういうことね~年を取るってこういうことね~そして思いの他、自分の体が日本を求めている。  

悪くないけども。 

数日前、Yahoo Japan のとある記事が友達と私の二人の日本人三十路女性の目に留まる。 『竹野内豊熱愛!』  ぎゃー! しかも20代の女性と!  「なんてことなの!私は『星の金貨』の頃からファンだったのに・・・。水曜10時を毎週楽しみに生きていたのに・・・竹野内豊...

数日前、Yahoo Japan のとある記事が友達と私の二人の日本人三十路女性の目に留まる。
『竹野内豊熱愛!』 

ぎゃー! しかも20代の女性と! 

「なんてことなの!私は『星の金貨』の頃からファンだったのに・・・。水曜10時を毎週楽しみに生きていたのに・・・竹野内豊か大沢たかおか悩んで、竹野内さんを選んだのに!」 
「いやいや!私なんて!!それよりもっと前のロンバケ時代から好きだったんだから!うぅ」 (バカ二人) 

あぁ神様、私、美しい男は皆ゲイだと思ってました・・・と心の言葉はしまいつつ、やっぱり、モっくんに一生の愛を誓って生きていくしかないと悟ったよ・・・。とは言うものの、熱愛報道に関連して今更『冷静と情熱のあいだ』の映画を観る。私に先んじて、前述の友達もすでに鑑賞済みだったらしく、感想を言い合う。 

私、「あ、そう言えば『冷静と情熱のあいだ』観たよー」
友達「どうだった~?」
私「見なきゃよかったってくらい後味悪い映画だった~。なんなの!?って怒りさえ沸いたよ」
友達「だよね!あのフェンディの毛皮のコート、もらわなくてよくない!?」 (竹野内豊の元彼女が今の彼からフェンディの毛皮のコートを誕生日にもらうシーンがあるのです。)
そこ?とはちょっと思ったものの、友達のコメントには激しく同意。あぁ、あんたのどうせ着ないであろう毛皮のために何匹のフォックスが殺されていると思ってるのー!とアンチ毛皮派の私。意地でもそれ着ろよ、とすごみたい。 

と、毛皮問題はひとまず置いておいて、あらすじを言うと、20歳の頃に順正(竹野内)とアオイ(ケリー・チャン)は「30歳の私(アオイ)の誕生日にイタリアのフィレンツェにあるドォーモに一緒に昇ろうね」と他愛もない会話を交わす。「その頃も二人はきっと一緒にいるはずだ」と信じて。しかし、いろいろあって二人は別れることになるが、8年の歳月が経って、今はもう会うこともなくなっても二人は思いあったまま・・・。そして別れから8年後、約束の街・フィレンツェで偶然再会するが、お互いにはお互いの恋人がいて・・・という、 江國香織と辻仁成のコラボレーション小説が原作の映画。 

私、高校2年生の時にブルー(辻仁成)の小説読んだ。冬休みの読書感想文もこの小説で書いたくらい、この小説が大・・・嫌いです。そもそも辻仁成が嫌い(みぽりん、あなたの決断は間違ってないと思うよ)。「元カノが忘れられない」という主人公の男に嫌悪感。いや、厳密に言うならば、それを言っちゃう男に嫌悪感。あのねー。それを言って、今の恋人を傷つけて許されるのは、19歳くらいまでだと思うのよ、私。わかるよ、わかるのよ。人間、捨てられない過去もあるし、忘れられない恋の一つくらいなかったらつまらないと思う。傷を抱えて生きている人は逆に魅力的とさえ思うけど、言葉に出して今の彼女に言ったらだめだと思う、そこはやっぱり。恋にはルールはないと思う半面で、やっぱりルールはあると思う。大人になってからの恋は特にルールがあると思う。不倫も然り。だから、大人になってからの恋は切ないし、ルールを破れない恋物語を見て切なくなったりするんだと思う。ルールを敗れるか敗れないかがどれだけ人を愛しているかのバロメーターではないと私は思う。 

主人公がしてるのはもちろん“純愛”だけど、周りを巻き込んで、傷つけてる。やっぱりね、これは大人はやっちゃいけないと思う。二人が深く愛し合うがゆえにお互いを傷付け合うのは、しょうがないことだし、避けられないことだと思うけど、周りをその愛に巻き込んじゃだめだと思う。私が周りの人なら「もう勝手にして~私、いち抜けたっ!」と思うね。ま、そういう意味でこの男は最低だと思う。たいてい大人になると感想って変わるものだけど、感想、まったく変わらず。 竹野内の今の彼女役が篠原涼子なのだけど、「あんたね、今別れておいて正解だよ。間違って結婚でもしようものなら、地獄だよ。女はやっぱり自分を一番に思ってくれる人がいいと思うよ」と言いたい。 

アオイ役のケリー・チャンにも、「あんたもね、よく考えなよ。アメリカ人の今彼も順正もあんたのこと思ってくれているのはよくわかるけど、外国暮らしの長いあんたにはこういう男は後々苦労するって~。今はいいかもしんないけどさ~」と外国に住む女性にしかわからないであろうコメントをする私。この感想はある程度大人になったからこそ言えることではある。 

同じ人をずっと好きでいたり、こんなに深く愛せることはある意味で素晴らしいことだけど、こんなにもお互いを苦しめたまま縛られている恋愛はやっぱり悲しい。そしてだいたい、深く愛し合うがゆえに、離れることも出来ないけど、一緒にいることも不可能という厄介さ。

総まとめ: この映画は竹野内豊の美しさを保存しておきたかったから撮影されたに違いない!Meet Joe Black 『邦題:ジョーブラックをよろしく』を観た時、「この映画は若かりし頃のブラッド・ピットの美しさを撮影したかったに違いない!」と思ったことと等しく、それくらいの感想しか持たないくらい美しかったわ~。もしくは、フィレンツェまた行きたいなー、次は夏に行きたいなーくらいの感想ね。この映画の「純愛仕立て」に感動しない私は心が冷たいのか?ていうか、当時どういう扱いをされたんだろう、この映画は。  

ちなみに、酷評した辻仁成のブルーとは打って変わり、江國さんのレッドはすごくよかった。いろいろ思うことがあった。そうだよね、女ってそうだよね。大人の恋って切ないよね、という風に。 

もし人生で唯一愛した男性と10年後に再会して、一晩を共にすることになったら・・・

女はきっと、それを別れだと思うと思う。出会ってすぐのワンナイトのアフェアを男性が「終わり」、そして女性が「始まり」だと思うこととは反対に。 

ここ二週間くらい「10月にしては信じられないほどいい天気♡今から冬が来るなんて信じられないなー」と思っていたけれど、始まりましたよ、ディプレス以外することのないくらーくながーい冬の日々が。 しかも今月末にはサマータイムが終わる・・・。夏を楽しみたい気持ちはわかるんだけどさー、な...

ここ二週間くらい「10月にしては信じられないほどいい天気♡今から冬が来るなんて信じられないなー」と思っていたけれど、始まりましたよ、ディプレス以外することのないくらーくながーい冬の日々が。
しかも今月末にはサマータイムが終わる・・・。夏を楽しみたい気持ちはわかるんだけどさー、なんで気落ちし始める10月末にわざわざ一時間時間をずらすのかな。この一時間のせいで、余計気落ちするんだが。あぁ、そろそろマフラー買わないと。去年は2週間くらいで、マイナス10度の世界が終わったので、靴下2枚履き、コートの中にライダースジャケット着込んで、寒さを凌いだけど、今年はそうも行かないだろうなぁ。ダウンジャケット着たくないけど、ダウンデビューするべきか?暖かそうよね、ダウン。 

20歳の頃なんて真冬でもミニスカートに素足なんてよくやっていたものだ。デニムにヒールを合わせるなら絶対靴下を履かない、着膨れするのがどーしても許せなくて服は2枚以上重ねないという自分ルールを徹底していたものだ。『おしゃれは我慢』ピー子の言葉を心の支えにしていたものよ。ふっ(遠い目) 

しかし。もうね、出来ません、そんなこと。北国ドイツに住んでるからとかではなく、うん、認めます、私、年取りました。 

ファッションに対する情熱もそうだけど、ここ1年自分の変化にすごく驚く。昔は「一生ひとところに定住しないぜ!転がる石は苔つかないぜ、ロックンロール!」みたいな感じで本気で思っていた。結婚をはじめとして、家具を買うだの、家を買うだのもろもろのことに背筋が本当にぞぉ~としてたものだけれど、定住には今むしろ憧れる。家具?買いたい。好きなものに囲まれて暮らせるって素敵。家を買うことはまだ抵抗あるけど、ベルリンだったら投資になるから買ってもいいかもなと思う。売ればいいし。NO MUSIC, NO LIFEだったのに、最近はまったくアップデート出来てない。「どんなに疲れていても一行でも本を読んで寝る」がモットーだったのに、全然本を読めてない。稼ぐお金のほとんどを航空券に使っていたのに、旅行、もう行かなくてもいい。今からの季節寒いし、なんて思ってしまう。
本の虫だった私が本を読まない日が来るなんて・・・。放浪癖は一生治らないと思っていたのに・・・。
 
でもよく考えてみると20代の頃は、「時間がない!テレビなんて見ている暇ない!だらだらしているひまもない!本読まなきゃ、映画見なきゃ、英語勉強しなきゃ、あそこにも行かなきゃ、ここにもまだ行ってない、友達とも遊ばなきゃ、彼にも会いたい、あぁ1日はなんで24時間しかないんだろう!とにかく時間がない!!」と常に焦燥感の中で過ごしていた気がする。「明日死ぬように生きろ、永遠に生きるように学べ」とはマハトマ・ガンディーの有名な言葉ですが、まさにその通り。その言葉を胸に、自分がやりたいと思ったことは、ほぼすべて遂行した気がする。「あれやっておけばよかったなー」ってことはあんまりない。これは満足したということなのかなと最近思う。だからなのか、もしくは男女、国籍関係なく来るのかもしれないけれど、次のステージのドアが開き始めた気がしないでもない。

それにいつまでも「明日死ぬかもしれない」なんて思って生きていくのも疲れる。肉体的にも精神的にももう無理だと思う。満足したと同時に、疲れた。明日死なないと信じて、もっとゆっくり生きていいのかな、と。
大昔、ばりばり思春期真っ盛りの青臭い14歳の頃、父に「私は明日死んでもいいように生きる!!」と啖呵を切ったら(死語)、おだやか~な口調でさらりと「まぁでも明日死なないかもしれないからね~」と言われたことを思い出した。げなう!(ドイツ語で「本当に!」の意味)
「明日死ぬかもしれない」と「明日死なないかもしれない」のバランスはやっぱり難しいけれど。 

結婚も・・・今までは「一生男女でいたいから結婚はしたくない!(というか、しがらみたくない。男女のもつれはどこまででも受け入れますけど)」と思っていたけれども、することもあるかもしれないと思わないこともなかったり。事実婚の多いベルリンでもこういう考えになるから、結婚に社会的プレッシャーの大きい日本女性の気持ちはいかばかりか。お察しします。

人間は変化するねー。こういう日って来るのね~自分には一生縁のない話だと思ってたけど、何事も「一生」とか「永遠」ってことはないんだな。

時が残酷に流れないことを祈る。